국문초록
この論文は、2012年3月日本の文部省の檢定を通過した高等學校用歷史敎科書のなかの征韓論項目を分析したものである。具體的には西鄕隆盛が征韓論主唱者から``平和使節論者``に置き換えられたことになったその背景を考察して、西鄕隆盛の遣韓使節論の顚末を分析することにその目的がある。本文で分析した內容を整理すれば次のとおりである。第一に、朝鮮總督府發行の歷史敎科書のなかの征韓論は、好意を持って交際しようとする日本にかえって無禮を犯す朝鮮を叱る善意の隣國として日本を描寫しているだけであって、二百數十年間善隣を修めてきた朝日間の外交慣例を一方的に無視し、かつ自國內の不平士族の不滿排出のため朝鮮征伐論を主張した背景は全く言及していない。すなわち、日本側の立場に立って獨善的·一方的に歷史が敍述されている。第二に、2012年3月檢定を通過した高等學校用歷史敎科書のなかの征韓論敍述は、戰前の總督府出版の歷史敎科書とは違い、日本側の立場だけの獨善的·一方的な敍述は止揚されているが、まだ多くの敎科書では征韓論の原因を朝鮮の國交樹立拒否にあるように記述している点は戰前の認識をそのまま踏襲している。第三に、明成社の征韓論敍述で板垣退助を征韓論の主唱者に、西鄕隆盛を朝鮮開國のための使節派遣者であると敍述したのは、明らかに歷史的史實に反している。 第四に、上記明成社の征韓論敍述に影響を及ぼしたと考えられる毛利敏彦の西鄕``遣韓使節論``は、西鄕の使節派遣→出兵(征韓)といった2段戰略の前段階だけを强調した結果であって、これは史實と相反する。關連史料を總合的に見る時、西鄕の眞心は非武裝使節に最善を盡くしてから、出兵の效果を最大化しようとしたことにあった。したがって、1873年10月の征韓論の眞相は、西鄕、板垣などが維新後の緩んだ民心を引き締めて士族の不平を外國に向かわせて士氣を振作させるためにわざと國難を釀成するのに對朝鮮外交問題が手段として使われた事件に他なら無かった。